ペンを持

ち、キーを打つロックンローラーも、アリだ。


扉の向こう [DVD]
扉の向こう [DVD]
昔から好きなバンドに、いや、僕の世代なら誰しも必ず通って来た道に、ブルーハーツがある。甲本ヒロト真島昌利は、ハイロウズクロマニヨンズと名を変えて、現在もロックンローラーだ。
甲本ヒロトは1992年、NHKの番組に出演して、「明治の詩人も、今の時代ならバンドをやってるはずだ」というニュアンスの言葉を言っている。
――そんな詩人が、今僕はエレファントカシマシ宮本浩次ではないかと、思う。
ドキュメンタリー『扉の向こう』の中で、宮本浩次は、『作家』への嫉妬とも取れる憧れの気持ちを顕わにしている。
しかし、映像に表れる彼の作詞の姿は、まさに詩人であり、同時にロックンローラーである。
彼がバンドの音だけをバックに、(まだ詩が出来ないまま)言葉にならぬ音を叫ぶ姿は、心の中の、詩そのものが生まれようとする瞬間を見たようで、衝撃的だった。


彼の歌は、彼の言葉である。
彼の詩は、彼そのものである。
「今、売れセンはアレだから」「購買層は若者だから」そんないやらしいマーケティングを断固無視して、当時37歳の彼の言葉が、彼を含めた当時37歳の世代に向けて放たれる。
彼の遺伝子が、彼そのものが歌に遺される。
文系だ。ガッチガチの文系だ。いわば文系ロックだ。いや、なんか文系ロックって言葉があるらしいですね。
じゃあ文学ロックだ。
明治の文豪が西洋への憧れと嫉妬と劣等感とを、自らと日本との境遇に重ねてグツグツに煮込まれた感情を言葉にして原稿用紙にしたためていた――ここで、冒頭の甲本ヒロトの言葉が重なる――ロックンロールを、宮本浩次は、作家に嫉妬しながら、体現している。


今まで、僕(ら)は全く売れないマンガばかり描いて来た。
「こうすれば売れる」というアドバイスを、全く受け入れなかったかと言うとそうでもないが、まず自分らが楽しみ、自分らが納得し、結果的に、自分らが読みたいマンガを創って来た。(結果的にアドバイスは聞いていないと思われる。売れなかったから。)
僕は、マンガを描くことを辞め、原作だけを書くようになった。
だけど、相方と共にマンガを描いてた時と、創作に対する衝動は変わらない。
僕(ら)の描いたマンガは、僕の書いた原作は、作品のジャンルの幅はあれど(前の日記にも書いたが『孔子論語』と『悪徒』の幅は笑えるほど広過ぎる)、僕そのものであり、作品の出来・不出来も含めて、可愛い息子である。


ただ、宮本浩次と僕との彼我の差は、
彼はそれでも売れているということだ。


彼が作家に嫉妬を覚えるように、僕はロックンローラーに嫉妬を覚える。
だって、カッコいいもん。ステージに立って、ダイレクトにレスポンス来るもん。
もちろん、自分が引っ込み思案でヒキコモリ体質でアガリ症で、楽器も出来なくて、単に紙に絵を描くことでしか自分を表現出来なかったから、今こうやってキーを打っているわけですが。


だけど、宮本浩次ロックンローラーであり、詩人であり、作家であるように、
僕も含めて、
今、自分と戦いながらマンガを描くことしか、小説を書くことしか出来ないガッチガチの文系野郎どもだって、ロックンローラーで有り得る。


僕はロックンローラーに憧れ、愛し、また自らもロックンローラーでありたい。
僕が、僕(ら)の作品が、愛されようと嫌われようと、その姿勢を変えないことが、ロックンローラーでもある。
――もちろん、愛されたほうがうれしいのだけど。
愛される為に、自分を捨てることは、しない。



★★★★★
(忘れそうになったけど、これレビューですから。)